注連縄でおもうこと2011年01月08日 01時48分07秒

最近あちこちで聞かれるのが、昔は貧乏だったのになぜか豊かだった、ということがあります。

昨年からなぜだろうと、いろいろ考えていたのですが、名神高速を走りながらふと、「そういえば昔は車に注連縄をつけていたな」と気づきました。
今は飾っている車は、ほとんどありません。
前の会社では、昭和40年代前半までは一営業所それぞれ50台くらいある車全部に注連縄を飾りました。和歌山だけでも500台くらいあったのがみなつけてました。

このことを突っ込んでみると、いま日本にある車は7500万台くらいですが、それらのうち8割が注連縄をすると、6000万台、それらにつける注連縄ひとつ500円として、たったそれだけで30億円のお金が動くことになります。
これに家に飾る注連縄をプラスすれば、注連縄ひとつとっても莫大なお金が動くことになります。

注連縄は、農家の年末の貴重な副収入だったはずです。
それもお年寄りのいい小遣い稼ぎでした。
大事に育てた稲わらも無駄になりません。

今はどうでしょう、発達した社会は、元気で働いている人にはお金が回っても、お年寄りや子供に回ってきませんね。
昔は、結構平均的にお金が回る社会のニーズや世代をまんべんなく支える消費があったわけですね。

富が偏るということは、余裕のないものにとっては満足感がなくなり、なにかこうわけのわからない逼塞感が漂ってしまうのですよね。

やはりどこかボタンのかけ違いが起こっているような気がします。
これは日本だけではないですけれど・・

ここはひとつ、温故知新、今こそ日本の伝統を見直し、それに今のハイテクを組み合わせながら、よりよい方向にシフトしていかないといけないのではないかと思います。

今の日本の政府に要求しても無理ですし、まして官僚のみなさんは国民のことなど考えてくれませんので、ここはひとつ国民一人一人がかしこくなって、自分のたち責任で日本をよくするというムーブメントを起こせたらいいな、と思っています。

昭和40年代、良くも悪くも何か言いたいことがあると、大勢でデモをし、自分たちの思いを表現したのを思い出します。