近江路にて ― 2016年04月11日 18時13分01秒
どこの町でもフラッと走っていても、止まって眺めたくなる景色があります。
琵琶湖周辺は特に多いですね。
観光地になってなくても面白いところがたくさんあります。
司馬遼太郎さんが「街道を行く」をまず琵琶湖周辺から書き出した理由が分かります。
琵琶湖はいつ来てもいいところです。
琵琶湖周辺も、バブル期の反省からかひどい開発が少なくなりました。
もうこれ以上壊して欲しくないですね。
特に琵琶湖の中心部の水質はAAで、そのまま飲めると言うことですが、それがいつまでも続いて欲しいと思います。
まさに近畿の水瓶です。
濁水防止の看板。
無粋な看板ですが切実な気持ちでしょうね。
近江八幡の水郷も、いつ行っても濁っています。
田んぼがあるのでやむを得ないのでしょうが、水の行き来がスムーズであればもっときれいになると思うのですがどうでしょうか。
写真は、この町のあちこちにあったふきながし。
その柱の下にはその吹き流しを送ったお寺の名前があります。
祭が近いのかも知れません。
こういう地域密着の伝統行事はいいですね。
この辺りは曳山祭がたくさんあります。
まだ長浜のしか見ていませんが、近いうちにどれかを見てみたいです。
これからの日本 ― 2016年04月12日 22時35分44秒
最近何となくこの国に危機感を持っています。
今日電車で、隣の席の方が読んでいた新聞の記事を盗み見をしたら、管理職になりたがらない人が増えていると書いていました。
会社の組織も、部長以下がすぐ社員という感じになりつつあるとか。
あまりいい傾向ではないですね。
むき出しの出世志向もあまりよしとはしませんが、自分を高めるためにもある程度の上昇志向は必要と思うのですけどね。
それと体力がいる職業や伝統的な手わざが必要とされる職業の担い手がなくなってきているということは以前から言われていました。
何とかしないとこの国はどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと思えてきます。
テレビゲーム機のスキルの高い人は多くなっていますが、肝心の文化のインフラができていないとその国は寂しいものになります。
何とかしないといけないですね。
写真は1979年9月、和歌山は下里の祭りの時のスナップです。
ここの獅子舞は文化財に指定されています。
この当時の賑わいが今でも残っているか心配です。
今日電車で、隣の席の方が読んでいた新聞の記事を盗み見をしたら、管理職になりたがらない人が増えていると書いていました。
会社の組織も、部長以下がすぐ社員という感じになりつつあるとか。
あまりいい傾向ではないですね。
むき出しの出世志向もあまりよしとはしませんが、自分を高めるためにもある程度の上昇志向は必要と思うのですけどね。
それと体力がいる職業や伝統的な手わざが必要とされる職業の担い手がなくなってきているということは以前から言われていました。
何とかしないとこの国はどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと思えてきます。
テレビゲーム機のスキルの高い人は多くなっていますが、肝心の文化のインフラができていないとその国は寂しいものになります。
何とかしないといけないですね。
写真は1979年9月、和歌山は下里の祭りの時のスナップです。
ここの獅子舞は文化財に指定されています。
この当時の賑わいが今でも残っているか心配です。
英語力のことなど ― 2016年04月13日 18時01分47秒
先日家電メーカー買収の報道で、日本側の役員が日本語で挨拶をし、相手の会社の社長は英語で挨拶していました。
向こうの社長は堂々としていました。その逆が日本でした。
私は英語教育は、教えようと言う概念を捨てて、記憶にすり込むようにして覚えるとスムーズに行くのではないかと考えています。
それに先生は、東南アジアの国々からの先生がいいのではないかと思います。
白人の先生だと教えてもらってるという感じがし、教えられるのが嫌いな子にとってある壁を作ってしまうのではないかと思います。
東南アジアの人は片言でも、普通に数カ国語を操ることができます。
言葉は通じればいいのです。
それは日常的にいろんな言葉を使っているからです。
日本でも、小学低学年の時は、例えば体操の時など英語しか使わないで、「集合」や「前へならえ」なんて言葉は英語だけしか使わないようにすればそれが記憶され、日常的なシーンでも普通に使えるようになるのではないかと思います。
給食の時なども、英語だけしか使わないようにすれば言葉もよりたくさん刷り込まれると思います。
そして小学高学年になってそれまでの日常的な会話に加えて少しきちんと教え込めば英会話ができるようになると思いますが、スタイルからはいる文科省の頭のいい方々は、やれカリキュラムがどうのレベルの到達点がどうのと、いろいろひねくり回し日常的に使える英語の実現にはほど遠い教育内容にしてきそうな気がします。
日本の先生で英語を教えられる先生はどのくらいいるのでしょうね。
これも克服しなければいけない課題です。
これから観光客がさらに増え、難民も受け入れなければいけないことも想定されますが、やはりせめて英会話はできるようにしておいてほしいです。
外国に行って話しかけたいけれど言葉が出てこないつらさを味わってきたものの切実な願望です。
写真は1979年4月15日の本宮まつりでのスナップ。
このころはこまめに祭りを撮っていました。
この賑わいは今でもあるのでしょうか。
本宮まつりは今年も明日から始まると思います。
世界遺産になってからの本宮まつりも見てみたいなと思いますが・・・
暖かくなってきました ― 2016年04月14日 12時45分24秒
ずいぶん暖かくなってきました。
山菜採りなどもいいか分かりません。
パニックになり食べるものがなくなったとき、山菜を食べる訓練をしておけばいいかなと思います。
でも少し勉強しなければ毒草を食べると大変なことになりますね。
おいしさのはっきりした、スカンポ(イタドリ)やハチクのタケノコなどよく採りに行きました。でも最近は昔のように太ったのが少なくなった気がします。
タケノコもこれからです。
私の好きな風景である、柿などの新しい葉の緑あふれる季節にバイクで里山に出かけ、山菜採りやバードウォッチングもいいですね。
山菜採りのことを言えば、クサギの木がありますが、その木の根っこには「クサギの虫」といわれるカミキリムシの幼虫が巣くっていました。
それを捕ってきて火鉢であぶって食べました。
疳の虫封じといってよく食べさせられました。
疳の虫ということ自体わからないままそれを食べました。
結構おいしかったのを覚えていますが大人になって一度食べましたが、記憶している味とは少し違っていました。栄養は間違いなしにあると思います。
中国ではコオロギやセミを食べるし日本でもイナゴは珍味ですね。
キャベツに付くモンシロチョウの青虫も、調理の仕方でおいしく食べられるのではないかと思ったりします。
タンポポの葉と、青虫の炒め物などいいかもしれませんね。
そういうのを食べられる訓練をしておけばパニックの時に役立つと思います(^^)
写真は1979年7月の大阪の街角です。
すごい地震 ― 2016年04月15日 12時35分36秒
地震はまた深い傷跡を ― 2016年04月16日 21時42分16秒
地震は大変なことになっていますね。
山崩れも大変だし橋もあちこちで落ちています。
これだけ余震が大きいとおちおち寝ていられませんね。
この地震で人生が変わってしまう人もまた出てくると思います。
日本書紀にすでに九州の地震のことが出ているそうですが、今一度古典や古文書を精査する必要があると思います。
犠牲になった方は本当にお気の毒です。
ご冥福をお祈りします。
さて4月も半ばを過ぎて少し暖かくなりました。
庭の花もいろいろ咲いてきました。
昨年いただいたコデマリが玄関先で花を付けました。
一年目の昨年はいじけた花しか咲きませんでしたが、今年は立派に咲いてくれました。
この花なかなかいい花ですね。色気のある花です。
チューリップも咲きだしました。
栄養が足りないのかいまいちの勢いですが、今年も忘れずに咲いてくれました。
紫蘭も咲きだしました。もう少しできれいな花をたくさん見せてくれるでしょう。
そして予期せぬうれしさがあるのが、このシンビジウム。
もう咲かないと思っていたのですが、先日開いた花とは別の茎からツボミを持ち、今朝一つ咲いていました。つぼみがまだたくさんあるのでこれからも咲いてくれると思います。
クリニックまではKLE400で行きましたが、まだバイクで走ると冷えるのでオーバーパンツをはきました。
クスリをもらい、帰りは定番のおもちゃ電車とたま電車とそしてKLE400のツーショットを撮りました。
線路の横に竹藪があり、ご夫婦らしきお二人がタケノコ掘りをしていました。
たくさん採れていました。
ここでオモデンをと撮ると、余り時間があかないうちに反対側からたま電車が来るので待機し、一緒に写真を撮りました。
まだまだイメージ通りの写真は撮れていませんが、近いうちに何とかベストショットをものしたいと思っています。
今日はもう一つ。
花園直道という役者さんがいますが、というより全く知りませんでした。
その人の公演の入場券をいただいたので見に行きました。
スーパー日舞ということで、邪派新姿(ジャパニーズというらしいです)となずけた新しい舞踊を目指しているらしいですが、邪派新姿などというキラキラネームを付けるだけあって、いろいろ盛りだくさんの踊りを見せてくれました。
未央一(みおはじめ)さんという宝塚のOGがコミカルな相方をしていました。
まだ若いのでもう一皮むければいい役者さんになると思います。
第一部の踊りは衣装も振り付けも少しチャラくてついていけませんでしたが、二部の古典舞踊や三味線は結構見ごたえがあったので、それを極めていけばいいのになと、シロートながらの感想を持ちました。
一部二部とも踊りばかりでしたが、単に踊るだけでは限界があり、もう一味別のエンターテインメントがほしいと思いました。
劇場が心斎橋の大丸だったので心斎橋あたりを歩いて難波まで行きましたが、人ひと外国人という感じでした。
和歌山もこれくらいの人出だったらうれしいのですけどね。
バス釣り 山田ダム ― 2016年04月17日 21時34分46秒
朝から風雨が強くて前日から続けている古いネガのスキャンをしました。
1979年のものですがこの当時はこまめによく撮っています。
この当時の粘りがあればブログにももっといい写真を載せられるにな、とネガを見ながら思います。
久しぶりに散髪をして4時過ぎに山田ダムにバス釣りに行きました。
もう少し早くに天気が安定したらカヌーを出そうと思っていましたが、天気の回復が遅くあきらめました。
山田ダムにはたくさんのバスボートが入っていました。
釣りだして2投目でチンピラバスが釣れて、今日は調子いいなと思っていましたが、それからはさっぱり。
他の人も釣れていませんでした。
ボートで釣っていた人たちは釣れたのでしょうか。
山も新緑がきれいになってきました。
萌黄色という色ですね。
一休さんの話を思い出します。
これから柿畑も緑がいっぱいできれいですよね。
バイク用の手袋も冬用から春用に交換しました。
コートも薄いので十分となりました。
これからバイクの季節です。
大阪街角1979年 ― 2016年04月18日 12時16分06秒
昨日は朝から悪天候だったので、引き続き1979年の写真をスキャンしました。
大阪の街角をたくさん撮っていました。
例会やコンテストに出したカットは頭の隅に記憶しているのですが、雑多なカットはどこでどう撮ったか全く忘れてしまっています。
今見ると現在との違いがわかって面白いですね。
我がネガながらスキャン作業に、はまっています。
皆で食事に行くのでしょうね。周りの店も時代を感じます。
梅田ですが野良公が闊歩しています。
今では考えられないことですが、当時はあちこちに野良公がいました。
赤ん坊をほっておいて掘り出し物チェック中。
石油ストーブというところが面白い。
日を追う毎に段々パーツが少なくなっていく、バイク。
今では行政がかっさらっていきます。
当時は大都会の真ん中でこうした露天商がありました。
これっていいですね。公園などでマーケットとして定期的にやれば活性化の一助になるのではと思います。
懐かしの看板。
日活ロマンポルノや**ミュージック。
この雑然とした雰囲気いいですね。
そろそろボーリングが下降線をたどった頃です。
日本人の熱しやすく冷めやすいという気質のよくでたスポーツです。
最近はまたテレビなどでも放映して人気が出てきてます。
この状態の自転車だと撤去人の皆さんもやりがいがあるでしょう。
電車の乗り遅れそうになって、きちんと駐められず上に放り投げるのでしょうか。
下の写真は何の集まりかさっぱり思い出せません。
これだけの人が集まって何か書いています。
不思議な空気が漂っています。
話はかわって、今朝、会社で熊本出身の社員がいるので被害がなかったか確認すると、自宅は阪神大震災後、耐震性のある家に建て替えたと言うことで、なんとか無傷で周辺の瓦屋根の家は倒壊したところが多かったそうです。
話の中で、
「中央活断層は和歌山まで伸びているので気をつけなくてはならないですね」
という結論になりました。
近々起こるかも知れません。
気をつけなくちゃ。
サーカス ― 2016年04月19日 12時26分53秒
見せ物小屋やサーカスは好きなもののひとつです。
子供の頃は串本の田舎にでも時々小屋が建ったりしましたが、今はもう来ないでしょう。串本に来た折りに見に行って、像の背中に乗せられ、会場を一周した記憶はいまだに鮮明です。
写真は1979年1月、梅田近くにできていたサーカスを見に行ったときのものです。
最近のサーカスはもっと派手で楽しいものかも知れませんが、この当時のサーカスの方がすきですね。
何となく哀愁が漂い、観客と一緒に楽しめたような気がします。
今、万博公園でやっている、最近のサーカスも見てみなければと思っていますがなかなか機会がありません。
サーカス定番の椅子の上でのパフォーマンス。
どきどきしました。
空中ブランコなど。
ゾウは今でもあるでしょうね。
1979年のネガのスキャンもやっと1月が終わってこれから2月にかかりますが、一ヶ月10本以上撮っているので、1年分だけでも大変です。
懐かしのカブ ― 2016年04月20日 12時27分25秒
高校2年生から乗り始めたホンダカブ50CCです。
このころからすでにレッグシールドを外して乗っています。
今はいろいろオプションパーツがあって楽しめますが、当時はなかったですね。
それにしてもこのOHVエンジンはタフでした。
いくら走ってもバテることはなく修理も簡単でした。
燃費もよかったように思います。
このスタイルを作り出した設計者に拍手です。
他のメーカーもいろいろ似たスタイルのバイクを出してきましたが、大きな違いはメンテナンスのやりやすさだったと思います。
エンジンを降ろすのにもカブだと30分ほどでできました。
他のメーカーの同タイプはいろいろ外すところが多くて1時間以上かかりました。
4サイクルエンジンというのもよかったですね。
それやこれやで売れ行きに差が付き、結局はカブの独壇場となりました。
小さなエンジンですけどタフによく走りました。
スピードメーターが壊れたのでスクラップ場から他のバイクのメーターを外してきてつけていました。
高校生の間このバイクであちこち走り回りました。
まだ舗装されていなかった国道42号線を走り白浜まで往復したのが一番長いツーリングでした。
そのころは狭くてカーブが多いため事故が多く、「酷道死に号線」といわれていました。
とにかくやたら時間がかかり、帰ったときは砂埃で顔が真っ白でした。
今は舗装されていない道の方が少なく、KLE400で探して走りますが、当時は国道42号線が田辺から新宮までずっとダートでした。
天皇陛下が紀南巡幸したとき、簡易舗装され、それから徐々に舗装されはじめました。いまから40年くらい前ですね。
いまでも熱烈なカブファンがいます。
なかでもクロスカブは人気があり、私も欲しいバイクのひとつです。
各自治体も災害対策用にこのバイクをそろえておけばいいのにといつも思います。
前の会社で、阪神大震災の支援に行きましたが、会社には連絡用のカブが20台くらい並んでいました。私たち支援スタッフはそれで災害復旧のお手伝いをしました。
最近のコメント