奈良県川上村金剛寺2019年03月17日 21時34分29秒

毎日新聞のコラムで「風景を歩く」というのがあって、行ったこともないような寺社仏閣や地域を紹介している。
今週は川上村の金剛寺というお寺だった。

後南朝ゆかりの寺ということもあり、雨模様だったが出かけた。

大滝ダムを左手に見ながら国道169号線を南下し道の駅を少し走ったところにあると思って走ると、道の駅からすぐの高原トンネルが工事中か何かで大滝ダムの対岸の道に迂回させられた。
ダムを右に見ながらの、迂回道路は狭いので片側通行であった。
大きく迂回して再び169号線に入り5キロほど走ったところで左折し、橋を渡ると神之谷(こうのたに)という集落に入る。
細い人気のない山道をしばらく走ると、分かれ道に寺の名前を書いた古びた案内表示があり、表示通り道を下ると、目指すお寺はあった。

きれいな集会所があり、その上に金剛寺の鐘楼があった。
それほど高くない階段があるがその左手にある木の大きさにびっくりした。
樹齢何年くらいだろう。知識がないので何という木かもわからないが、とにかく長い年月ここに立っていることがわかる。

金剛寺はそれほど大きな寺ではないが、きれいに手入れが行き届き、地元の人々が大事に守っているのがよくわかった。

自天王、忠義王の両宮を祭神として金剛寺の境内に祠がある。
建武の新政後、北朝と南朝という2つの朝廷が存在する南北朝時代があり、室町幕府3代将軍足利義満の時代に、南北朝合一が行われたが南朝の後亀山天皇の時に南北朝合一がなされたが、和解条件に南北朝が交代で天皇を立てるという約束があった。しかし北朝はその約束を守らなかった。
そこで後亀山天皇の皇子・小倉宮は吉野に戻り、南朝復活の思いは後南朝としてその子・尊義王や孫へと受け継がれる。
尊義王が亡くなった後、子の自天王と忠義王は南朝方の忠臣や村人に守られながら暮らしていた。
しかし1457年に赤松家一族により両方の御所が襲われ、若い二人の皇子はあえない最期を遂げたという。

金剛寺の境内には宝物庫があり、自天王が着用していた鎧や兜が保管されている。
その宝物庫には菊のご紋があった
国の重要文化財であるそれらの遺品を見ることができるのが2 月5日の自天王をしのんで行われる朝拝式の時という。

南北朝から後南朝時代の歴史はややこしいのでよくわからない。

寺を見終わり車についた頃、あられが降ってきて、いつしか雨に変わり、山を下って国道に出た頃に大雨になった。
五条の京奈和道路に乗った頃は、夕日が差し込んだ。
変な天気だった。

奈良県川上村金剛寺

巨樹。

奈良県川上村金剛寺

妙な空模様。

奈良県川上村金剛寺

巨樹の根元のうろにある。

奈良県川上村金剛寺

奈良県川上村金剛寺

奈良県川上村金剛寺

この写真の右にある大峰山、高野山50度登山記念というのは凄い。

奈良県川上村金剛寺

天邪鬼かな?

奈良県川上村金剛寺

境内の小さな祠にあった仏像群。

奈良県川上村金剛寺

お地蔵さん。
そして境内左手に宮内庁管理の自天王の陵がある。

奈良県川上村金剛寺

奈良県川上村金剛寺


神社と菊のご紋のある宝物庫

奈良県川上村金剛寺

石段に咲いていたスミレ。

奈良県川上村金剛寺

今日は久しぶりにニコンを下げていった。
少し重いが撮っているという感じになる。