今日はいい天気2020年10月12日 19時25分54秒

昨日、近くの志野神社が正遷宮で里中満智子先生の絵があると言うことで見に行った。結構にぎにぎしく正遷宮を祝っていた。

志野神社は、
和歌山神社庁の記事によると、
「天言代主命・加具土命・息長帯姫命を祭神とし、紀の川市北志野の桜池の近くに鎮座している。
『紀伊国続風土記』によれば、徳川南龍公の御代にこの北志野の地に人工池(桜池)を創ろうとしたところ夜毎に、奇妙な光が辺りに発せられ又、地鳴りが起こり村人等を苦しめたとあり、この事を聞かれた南龍公が村人等と相談されたところ、昔この地に天正の兵火に焼亡し慶安三年まで衰廃していた社殿があった事が判り、この社殿を新しく建立されたところこの奇妙な光と地鳴りが消えたとの言い伝えがある。
ここであえて言い伝えとしたのは、当社に確かな記録の書物等が無い為である。
尚、以前は、東屋御前神社と言いその後現在の志野神社と称している。
又、神功皇后の三韓征伐の行幸地としても『風土記』等に記されているがこの場合多くは「小竹の宮」と記されている。
現在の本殿鎮座地は、以前よりやや北に移っているが容姿等はほとんど変り無く保っている。
例祭日には、餅投げ等あり賑わっており、祭典終了後は、宮講の式も執り行う。
その他当神社には宮座が有り「木村座」「稲垣座」の2座で、1月・10月には座の式も執り行っている」
とある。

志野神社

志野神社

志野神社

志野神社

この神社は、所謂、「小竹ノ宮址」。
小竹の宮は日本書紀の神功皇后条にも登場する。

「皇后は紀伊國においでになって、太子(後の応神天皇)に日高でお会いになった。
群臣とはかって忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮に移られた。
このときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。時の人は『常夜へ行く』といったそうだ。
皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、『この変事は何のせいだろう』と。一人の翁がいうのに、『聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪というそうです』と。『どういうわけか』と問われると答えて、『二の社の祝者を一緒に葬ってあるからでしょうか』という。
それで村人に問わせると、ある人がいうのに、『小竹の祝と天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか』と。墓を開いてみると本当だった。
ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。すると光が輝いて、昼と夜の区別ができた」
ま、昔のことはよくわからない。

志野神社

志野神社はそれほど大きくはないが綺麗ないい神社である。
なぜ里中先生の絵があるのか社務所の方に聞くと、里中先生がこの神社の人の親戚で、論文を読んでそれなら絵を描いてあげましょうと言うことになったらしい。
綺麗な素晴らしい絵を並べていた、白黒は原画で、着色したものも並べていた。
御朱印もその絵を印刷していた。

神社の上の桜井池ではボートが何艘か出てバスを釣っていた。

志野神社

志野神社

志野神社

今までの御朱印でも一番綺麗。

志野神社

境内にあった木だがなんとなく別の木が相互になじんでしまっている感じがする。

桜池

桜池ではバス釣りボートがかなりの数出ていたが釣れていそうになかった。

クロスカブCC110

クロスカブCC110

ちょっと出かけたが最近カブちゃんをあまり撮っていないのでカシャ!

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