今日は風が若干あるものの温かだった。2024年03月01日 19時58分34秒

今日は若干風があるものの概ね暖かな一日。
ボールペン画を引き続きならいに行ってきた。
先生も入れて4人の寂しい教室だがこの前の婆娑羅の仕上げをした。
先生は運慶を描いていた。

帰りにスーパーマーケットの食事スペースに立ち寄り休憩したが高校が卒業式らしくアルバムを持った子がたくさんいた。
花束を持った子もいた。

そういえば私の卒業式の夜、生徒10人くらいと先生2名で酒を酌み交わしたのを思い出した。
先生方は後で学校中で問題になり、大騒ぎをしたらしいが私達は知ることもなかった。


歩いて部屋まで帰ったが、途中でニャンコにであった。
人慣れしたノラ達で全然こちらから逃げる様子はなかった。
小学生らしき声がしたのでそちらへ走っていった。



政倫調を少し聞いたが馬鹿らしくなってきたね。
益々政治不信がつのる。
外国の、それも進んだ国をまねしようともしないで私腹肥やすことばかり。
二人の元総理、MさんとAさんを呼んでほしいね。
今度の選挙で落ちればいいけどね。悪い悪いといいながら投票する。

やはり日本は潰れる。

今日は雲が厚く風が強かった。おまけに気温が低。2024年03月02日 20時26分54秒

今日は寒かった。
気温が低い上に風が昨日に引き続き強かった。
体感温度は氷点下だった。それほど寒かった。

最上廃寺跡ー紀の川市

写真は2015年3月前の家の近くに廃寺跡があると言うことで見に行った時のものである。

最上廃寺跡ー紀の川市

礎石もあった。

最上廃寺跡ー紀の川市

最上廃寺跡ー紀の川市

この下に人が眠っているのだろうか?

最上廃寺跡ー紀の川市

スイセンが綺麗だった。

最上廃寺跡ー紀の川市

紀の川市はもう梅が終わっているのかな。
前の家に引っ越した時桃のピンクに目を奪われた。
それほど前の山や畑がピンク一色になっていた。

それを名付けて「桃源郷」と言った。今は既に懐かしい。

今日は昨日ほど寒くはなかった。春が近い。2024年03月03日 20時05分40秒

今日は昨日ほど身を切られるような寒さはなかった。
段々暖かくなって春になるのかな。
そんな気配が少しした。

写真は1979年3月3日和歌山県は色川の養豚場である。
今でもこの養豚場があるのだろうか。


それにしてもヌケヌケとおっしゃる方がたのなんと多いこと。
パーティーをしてどれくらい入ったかは気になるもの。
これ常識。それを知らなかったと言うことを誰が信じるだろう。
誰かが本当のことを言えばたがが外れてドミノ倒しのように次々にいろんな事が明るみに出るだろうけどうまく口裏合わせをしているのかノラりクラり逃げている。
国民そっちのけでね。

まして能登半島の人々の惨状を知ってか知らずか自身の保身のために走り回っている。Kさん曰く「より緊急性を考えて・・・」地震発生から2か月以上経ってしまっているけど災害復旧は遅々として進まない。
これほど国民を馬鹿にしている政府は知らない。
Aさんの長い間の政策は何だった。
これって失政以外何物でもないけどね。

やはり日本は潰れてしまう。

昨日よりも暖かい一日。風は強かったけどね。2024年03月04日 21時15分28秒

今日は暖かかったが風が強く、体感温度はそれほどでもなかった。
今日も余りテクテクをしなかった。

写真は1975年3月4日の巡航船待合所である。
この時いずれなくなるだろうと思って撮っておいたものである。
前にも日が違うがカキコしたことがある。

巡航船待合所ー串本

巡航船待合所ー串本


巡航船待合所ー串本

桟橋は自転車置き場でもあった。
人がたくさんおりたり乗ったりしていた。

巡航船待合所ー串本

巡航船待合所ー串本

熊野交通でもらってきてろくに手入れもしていないのがよくわかる。
それでも機能とすればこれで十分。
今の世の中が進みすぎている。

巡航船待合所ー串本

私が家にいるのが分かればこうして待っていた。
近くの酒屋のイヌで高校3年間面倒を見た。
働き初めても忘れずやって来た。
家も昔のもので今はもうない。



今日は一日雨が降った。2024年03月05日 20時18分56秒

今日は一日雨が降った。それも大粒であった。

最近アナログレコードやカセットテープが復権してきているという話題がある。
アナログ派の私にとって嬉しいことである。
ライブなどで咳払いが聞こえるのはアナログレコードだからである。
貴重なレコードもこちらに来るとき大部分捨てたが、たった一枚プレヤーに残った。
たまにそれを聴いている。
回っている時間は少なく手間がかかるが、それがまたいい。
もっと増えてもいい。

写真は1975年3月5日、多分串本の潮岬だったと思うが、誰もいなくなり鶏もなくなってしまった。いわゆる廃墟。








本当にアメリカはT氏が大統領になってしまうのだろうか。
この地球はカオスの時代になってしまう。
どうなるのだろうね。
長生きをして地球の行く末を確かめるのもまた面白いか。

今日は晴。風が強かった。大分気候が緩んできた。2024年03月06日 23時12分15秒

今日は風が強かったが真冬ほどには寒くなかった。
気温が段々温んできたのを感じる。
そういえば今日は「啓蟄」である。
あっという間に3月になり、そして啓蟄である。

写真は1975年3月6日の潮の岬である。
基本的に今とは余り変わっていない。
小学生の頃遠足の一回はここ潮の岬であった。
今でもここはいいところだと思う。





誰かここにバイクで気軽に安く泊まれる宿を作ってくれたらといつも思う。
流行るのではないか。皆テント泊をしているが中間地点として泊まれるところがあれば嬉しい。無理かな。

今日はずいぶん暖かだった。2024年03月07日 20時22分12秒

今日はずいぶん暖かだった。手袋をしなくてもしのげた。

初めて枯れ葉マークを買った。裏に磁石がついたものでさてどこにはろう。
「こんなものがいるようになっていややね」
と、レジで店員さんにいうと、
「いえいえお客さんカメラを持っているうちは大丈夫ですよ」
「それでは若葉マークにしようかな」
「それはちょっと・・・」
だって。
娘に、「お守りみたいなものでこの車は高齢者が運転してる、とうしろのひとも気をつけてくれる」と言われたので買った。


昨日は啓蟄。近くの公園に春をみつけに行った。
道の途中で手袋があり石垣の排水溝に置かれていた。


小学校の土手にタンポポとスイセンが咲いていた。


ヒヨドリ君がしきりに鳴いて飛び交っていた。
葉が落ちているのでよくわかる。


団地の木にモズ君がいたが周りはコンクリばかりである。



カマキリの卵胞を三つほどみつけた。あるところにはきちんとある。
この卵胞は鳥か他の虫に食べられている。
シジュウカラなどはよく食べる。
木についたままのを一つ持ってきた。この団地で育ててみる。


去年の夏の名残かな。
セミの抜け殻があちこちにあった。


公園の遊具だが亀さんがパンダとライオンに迫られ反撃しているようにも見える。
さてさて。


風は依然としてあったが段々暖かくなっている。2024年03月08日 19時16分12秒

段々暖かくなっている。朝晩はやはり冷えるが日中は暖かくなってきた。
しかし風が強いのでそれも半分の暖かさである。
今日はボールペン画の日であったが上の階で踊り(ダンスパフォーマンス)のクラブがあったのかドタドタとうるさかった。
そういえばパリ五輪はこのダンスが正式種目になった。

写真は2010年3月8日の高野山護摩たきのスナップである。

高野山護摩たき

修業僧の中に修験者がいる。

高野山護摩たき

高野山護摩たき

尼僧さんもいる。

高野山護摩たき

高野山護摩たき

高野山護摩たき

高野山護摩たき


高野山護摩たき

今日は冬に逆戻りしたような冷たさだった。2024年03月09日 21時28分53秒

今日は寒かった。郵便を取りに一階まで降りるが手すりを持つ。
今日はその手すりが氷のように冷たかった。
手袋がほしいと思った。
実は先日のボールペン画に、鳥か虫を描く、と言ってしまったがいい写真がない。
昆虫は絶滅危惧種を描いていきたいと思っているが鳥はその生き生きしたのを描きたいと思っているが、ペン画はあくまでもリアルに描かなければいけない。
少しばかり写真を探したがなかなかいいのがない。

写真は2020年3月9日の写真で、テクテクしたときのものである。

もう少し写真を探さなくてはならない。


ムクドリ。


ケリ。


ノスリ。


イソヒヨドリ。


ヤマバト。

今日は串本のロケット打ち上げの日だったが、船が危険水域の中に入ったので打ち上げは延期になったらしい。
もし報道のままだったら、打ち上げを海から見ようとした船がいて入りすぎたのかも知れない。スマホでいいショットを狙ったのかも知れない。
いずれにしろ13日になるという。
今度は万全の体制で打ち上げを成功させてほしい。
経済効果を含めて原発が来なくて良かった。

今日も寒かった。風も強かった。2024年03月10日 21時36分17秒

昨日よりか少しは暖かいと思ったが風が強かった。
鳥撮りに行こうと思ったが行けなかった。

古い写真を見ている。
このノスリをボールペン画にしようかなと思っている。
木の枝もうまく伸びている。
後ろが煩わしくない。さてさて。

鳥たち

シジュウカラはこの時わが家の巣箱に巣をしていた。

鳥たち

モズ君

鳥たち

シロハラ君

鳥たち

ツバメ君達。

鳥たち

鳥山明さんやTARAKOさんが相次いでなくなった。
子供達が小さい頃ワイワイ騒いだ人達が相次いでなくなった。
ドラクエのキャラクターを作る人がなくなったり、独特の語りでナレーションをしていた人がなくなったり、まだ二人とも七〇才になってない、これからと言うときだった。
仕事が忙しかったのか、世の中はわからない。
少し寂しくなるが、これも世の常か。
そういえば開高健がいなくなったのは59歳(1989年)だった。