明日香村稻淵かかし祭り、彼岸花 ― 2017年09月24日 23時07分53秒
今日は天気はいまいちでしたが、毎年明日香村稻淵で行われるかかし祭りを見に行きました。
以前行ったのは5年前で、ほとんど以前と同じスタイルでした。
今年のメインキャラは、5mほどの忍者君でした。
これはテレビなどでも紹介されていましたね。
いろんなかかしがありました。
わんちゃんも賢くはいチーズ。
どこかで見た感じの顔のかかし。
黄色の彼岸花です。
この写真に写っているおじさんこの場所で10分以上写真を撮っていました。
周りのカメラマンもさぞかし腹が立ったと思います。
白いのもありました。
黄色の彼岸花をバックに。
飛鳥美人。
この方小さなぬいぐるみを彼岸花の中に並べてカシャッとしていました。
ほかにも同じような感じで、小さなぬいぐるみを並べて撮っていた人がいました。
はやりなのでしょうか。
石垣の間から一輪。
飛鳥の飛び越し岩。
橋本真土のは自然にできた石ですが、これは人が並べたものですね。
5年前に来たときは、大雨で石が流されて渡れませんでした。
今日は橋もできていました。
飛鳥川。
稻淵で彼岸花を堪能した後、岡寺のライトアップを見に行きました。
それはまた明日にでも書くことにします。
いよいよEVの時代かな ― 2017年09月07日 22時24分39秒
日産がリーフをモデルチェンジしました。
前のはイマイチダサかったのですが、今度のは際だった個性的なスタイルではないですがまずまずのいいスタイルですね。
航続距離は400kmということでこれもまずまずですね。
後はいいバッテリができてくるのを待ちましょう。
イギリスではタクシーを電気自動車にするという宣言をしています。
ロードマップをはっきりと示していますね。
日本が欠けているところです。
まえのEVブームの時も政府の対応は各省庁まちまちで足並みがそろわず、結局尻切れトンボとなり、世界から取り残される結果となりました。
我々がEVを販売し、コンバートしたときにほしかったのは急速充電に加えて、安いコストでたくさん充電できる施設がほしかったのですがだめでした。
今度のリーフの登場で、EV化を加速させてほしいですね。
写真は黒滝の道の駅で売っていた地場産品のうちの、鮎の塩焼きと草餅です。
鮎のいい匂いが漂っていました。
観光地では純粋な草餅が少なくたくさん人の集まるところ着色料入のがありますが、ここはきちんとしたよもぎ餅でした。
添加物が多いと後味が悪いですものね。
アンも甘過ぎずいい味でおいしかったです。
箸の無人販売所 ― 2017年09月06日 22時33分23秒
これも先日登った大天井ヶ岳への道筋の写真です。
下市は箸作りで有名ですが道ばたに箸の無人販売所がありました。
買いはしなかったのですが、何となく面白くて写しました。
下市、黒滝、天川と面白い町が続いて、そして大峰奥駆け道に続きます。
山に登った帰りに天川村を抜けましたが、宿屋や店屋の中は明るくて道路にはたくさんの提灯がぶら下がっていました。
車を止めて写真に撮りたかったのですが、狭いのと駐車場がないので諦め次の機会にすることにしました。
映画「千と千尋の神隠し」の温泉のシーンを彷彿とさせるような光景がありました。
こういうのいいですね。
海の向こうでは、不法移民の国外退去を命じるような動きがありますが、移民で成り立っている国なのに
こちらから見るとおかしいですね。
内乱やらできっちりした移民手続きもできずに入国した人も多いと思いますが、少し乱暴すぎる感じですね。
これからの動きを注目したいと思います。
我が国は少子高齢化で人口が減ってきますが、今以上に外国の人の手を借りなければいけないときが来そうな気がします。
そんなときのために、きちんとした法整備と、様々にシミュレーションをしておかなければと思うのですけどね。
不法入国も多くなるかもしれません。
そういえばベトナム戦争の時期紀南の海岸に、外国人が上陸したら通報してくださいと、看板があちこちにありました。
下市は箸作りで有名ですが道ばたに箸の無人販売所がありました。
買いはしなかったのですが、何となく面白くて写しました。
下市、黒滝、天川と面白い町が続いて、そして大峰奥駆け道に続きます。
山に登った帰りに天川村を抜けましたが、宿屋や店屋の中は明るくて道路にはたくさんの提灯がぶら下がっていました。
車を止めて写真に撮りたかったのですが、狭いのと駐車場がないので諦め次の機会にすることにしました。
映画「千と千尋の神隠し」の温泉のシーンを彷彿とさせるような光景がありました。
こういうのいいですね。
海の向こうでは、不法移民の国外退去を命じるような動きがありますが、移民で成り立っている国なのに
こちらから見るとおかしいですね。
内乱やらできっちりした移民手続きもできずに入国した人も多いと思いますが、少し乱暴すぎる感じですね。
これからの動きを注目したいと思います。
我が国は少子高齢化で人口が減ってきますが、今以上に外国の人の手を借りなければいけないときが来そうな気がします。
そんなときのために、きちんとした法整備と、様々にシミュレーションをしておかなければと思うのですけどね。
不法入国も多くなるかもしれません。
そういえばベトナム戦争の時期紀南の海岸に、外国人が上陸したら通報してくださいと、看板があちこちにありました。
大天井ヶ岳登山 ― 2017年09月02日 23時49分42秒
久しく大峰奥駆け道を歩いていなかったので、歩く時間の短いところということで大天井ヶ岳を選び登りました。
五番関トンネルの入り口に車を駐め、登りました。
駐車場横には東屋があり、ヤマハ セローが2台駐まっており、ご夫婦らしく2人が東屋でストーブで湯を沸かし昼食を用意していました。
いいなー。
登山のための用意をしていると、バイクが何台か走り去りました。
この道はトンネルを抜けて林道を走ると、吉野山まで続いています。
バイクの最高の林道ですね。
登りだし、山上が岳への結界に到着。
ちょうど修験者姿のイケメン若者が登ってきました。
「あなたがホラ貝を吹いていたのですか?」
「はい、そうです」
「いい音色でしたね。よく聞こえていました」
「ありがとうございます」
「一緒に写真を撮らせていただけませんか」
「はい、いいですよ」
というわけで、一緒に写真を撮らせていただきました。
若者はお祈りした後山上が岳の方に登っていきました。
かなりの登りをえっちらおっちら登りやっと頂上。
ガイドブックの地図には、1時間と書いていましたが、2時間かかりました。
帰りはガイドブックは40分と書いていましたが、やはり1時間20分かかり、倍の時間がかかりました。
コケないように慎重に歩くのでやむを得ないですね。
ガイドブックでは初級コースになっていましたが、感じとしては中級の登りに感じました。
昼が長いので、今日はヘッドランプのお世話にならずに降りることができました。
駐車場までの下りがガレ場なので明るいうちに帰れたのはラッキーでした。
今夜は時間がありませんのでこのへんで。
大台ヶ原登山 ― 2017年07月02日 22時58分03秒
ウンドーフソク解消のために、11時頃から大台ヶ原に向かいました。
雨が心配だったのですが大丈夫でした。
新緑の時期は過ぎ、緑がかなり濃くなっていました。
正木峠を下りかけたとき鹿が目の前を横切り、こちらをチラミしながら笹を食べだしました。ワイドズームではアップにできないので、レンズを交換する間も逃げずに笹を食べ続けました。
熊野灘をバックにポーズをとってくれました。
これが晴れて青空だったらよかったのにと思いましたが、それは仕方ないですね。
家に帰ると東京都議選の開票結果をやっていました。
ほぼ予想通りの結果になりつつあります。
やはり都民はきちんとした判断しましたね。
結局小池さんの圧勝となりました。
この支持を大事にして、政治でもリーダーシップをとり、他府県の模範となるいい政治をしてほしいですね。
行者環岳でであった昆虫たち ― 2017年06月05日 22時05分54秒
高取町 くすりの資料館 ― 2017年05月26日 21時43分07秒
再び先日行った高取町です。
土佐町の中ほどに、高取町観光案内所「夢創舘」があり、その裏に薬の町「たかとり」を感じさせる「くすりの資料館」があります。
蔵の一部を改造している資料館は懐かしい薬が展示されてあり、面白かったです。
奈良はあちこちの町が薬を作っていますが、高取町もそうであったとは知りませんでしたた。
この高取町のくすりの歴史は古いらしく、遡ること飛鳥時代(西暦612年)に推古天皇が聖徳太子などと一緒に、高取に来て薬狩りを行ったと伝えられています。
自然に恵まれ薬となる動植物類が、豊富だったようです。
修験者によって大和の薬が、全国に広められたのが、大和売薬の興りとなったということですが吉野には陀羅尼助があり、薬つくりをする各町で競っていい薬を作ったのではないでしょうか。
江戸時代は高取城植村藩主が、江戸参勤の際、他の藩主に薬を贈り全国の販路拡大に貢献したそうです。
その後江戸中期頃から、明治にかけて各地を行商し、現代の配置販売の基礎ができたということです。
その後江戸中期頃から、明治にかけて各地を行商し、現代の配置販売の基礎ができたということです。
富山や奈良の薬の行商の人が来て、お土産に紙風船をもらったのを思い出しました。
あまり遊ぶものがなかった時代、そんなささやかなものでもうれしかったです。
ここ高取のことは、日本書紀にも載っているらしく、推古19年(611)で、「夏の五月五日に、菟田野に薬猟す・・・」とあり、続いて翌20年の第2回目は「夏五月五日に、薬猟して、羽田(はた)に集いて、相連きて、朝(みかど)に参趣く・・・」となっていて、この第2回目に出てくる「羽田」の場所が、高取町の羽内から市尾あたりのようです。
一度日本書紀を見なくてはいけません。
薬の歴史も面白いでしょうね。
懐かしい包装紙の薬がいっぱい。
いつもお土産にくれた紙風船。
私がよくもらったのは丸かったですね。
城下町 高取町 ― 2017年05月23日 17時49分46秒
高取町へは以前に日本三大山城といわれる高取城に登り、面白く思いました。
その時集めたパンフレットにこの土佐町の紹介があったわけです。
その土佐町の中ごろに高取城への登り口があり、入り口に奈良産業大が作成したCGの看板がありました。
たらればはいけませんが、もしこの城が残っていれば素晴らしい観光施設になっていいて世界中から観光客がやってくるでしょうね。
戦後の建設の和歌山城でもあれだけの外国の方が来ているのですから、こうした歴史ものが好きなヨーロッパのお客さんも来ていただろうと、残念に思います。
いつの時代にも先の読めない政治家がいますからね。
松ノ門が復刻されていました。
扉は昔のままで重厚なつくりでした。
屋敷があったと思われるところは広い公園になっていました。
今でもお住まいとしている江戸時代の侍屋敷がありました。
いいデザインですね。
祖の侍屋敷から少し上に藩主の屋敷がありました。
ご主人らしき方が自転車を勝手口らしきところから中に入れていました。
漆喰をうまく盛り上げてデザインしています。
今これだけの普請をすると莫大なお金がいるでしょうね。
単に古い街並みだけかと思っていましたが、どっこい南北朝から江戸時代までの建物や史跡がありました。
もっと詳しい歴史を知ればさらに面白いと思います。
話はころっと変わって、「共謀罪」法案が衆院を通過しました。
国民があれだけ、
「じゃあどうなるんだ」
と問いかけてもなしのつぶてのまま決められそうです。
政府がガイドラインを決めていても、末端の管理部門の判断でゆがめられ、人権や民衆の命などそっちのけになるのは、戦前の治安維持法などを書いた小説などで知っています。
法務大臣の説明されない説明がとおっている現実は、その危うさをより強く感じてしまいます。
高取町土佐町その2 ― 2017年05月22日 12時35分45秒
ボクシングの試合を見るのが好きで、テレビ中継があればよく見るのですが、楽しみにしていた村田さんの試合、残念でした。
あれは完全に村田さんの勝ちでしたね。
あのジャッジペーパーはどういう基準でつけたんでしょうかね。
リターンマッチをしてほしいですね。
10回か11回の時にもっと派手目に打ち合っていればよかったのでしょうか。
見終わった後味が悪かったです。
写真は昨日に引き続き高取町土佐町です。
昭和の香りがします。
昔の人のほうがデザインセンスがいいですね。
そのものずばり、いいですね。
沖縄があります。この町筋はほとんどのおうちが玄関先に花があり、道行く人を楽しませてくれます。
この屋根もいいですね。
なんとお医者さまでした。
このまま赤ひげが出てきてもおかしくない。
お豆腐屋さん。
買ってもよかったかな。
昼すぐだったのでパスしました。
和歌山でも、ユアサなどはよく町並みを残していますが、粉河、橋本などは昔の面影もなく壊されてしまいました。
もしこの町のように建て替えても街の雰囲気は残す形でやっていたらいい観光地になったのにと思います。
本宮大社の前に道は、新しい建物をつくりかえてクラシックな落ち着きのあるいい街並みになっています。
行政の景観保存に対する姿勢が問われます。
我が家の菜園そして土佐町 ― 2017年05月21日 21時21分11秒
朝から庭に水をまき、ちょっとした野菜の育成を見ましたが、どうも思うように伸びてくれません。
とはいいつつも先日はトマトの花が咲き、遅くても少しずつ伸びています。
うまく収穫できたらいいのにと思います。
この写真は少し古いSONYのサイバーショットHX-100Vで撮りました。
長いこと使っていないので電池が心配ですが結構写っています。
山に行くときはこれで十分かな?
荷物も軽くてすみます。
昼から高取城の麓にある土佐町を歩きに行きました。
初めて行きましたがいいところです。
壺阪山駅前の喫茶店?
いろんなものがあります。
とにかくツバメの多いところでした。
ほとんどの家の軒先に2,3個の巣がありました。
多いところは5つくらい巣がありました。
じっくり待って餌をあげるところも撮りたかったですが時間がなかったのと、よその家の庭先なので待てませんからね。
また巣の近くでいると親鳥が遠くからこちらを観察しあまり飛んできませんでした。
町並み保存のために、至る所にこんな案内板がありました。
どこかの町にこれを掲げてほしかったですね。
紀ノ川筋の各町々もこの考え方で町並みを残していれば、いい観光地になったのにと残念です。
奈良に土佐町とはおかしいなと思っていたら、看板に書いているとおりに、大和朝廷に仕えて帰りの路銀をくれなかったのでやむなくここに定住したということです。
いつの時代もお上のすることは民衆のことなど意に介しないですね。
明治8年に建てられた道標。
こんなのいいですね。
今日は30度を超えているところがありました。
それでも何組かこの町並みを歩いていました。
てくてく記録は、ぼちぼち書いていくことにします。
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