奈良で思ったこと ― 2008年09月07日 22時45分38秒
奈良を少し歩いた。
奈良については、毎年数回訪問し、かなり理解しているつもりでいたがほとんど知っていなかったことを思い知らされた。
それとともに、人は時の為政者によって生活も支配され、良くも悪くもなることをこれまで以上に強く感じた。
さらに人間そのものは年月を経ても本質的に同じだという思いを強くした。同時に民衆にとっても、どの立場をとるかによってどんな長い歴史を重ねてきた文化財も、そして自然すらも単なるくずとなることを知った。
特に衝撃的だったのは、近代においての廃仏毀釈で、日本文化にとって大きな危機だったことを改めて認識した。
しかし、本当に価値あるものはそれを理解する人が現れれば救われている。
興福寺のほとんどすべてのものが売るに出されていたが、五重塔も残り、寺宝も回収して今に残り、そのほとんどが現在では国宝になっているという事実を知り、残されて本当によかったと思う。
これは自然についても同じことで、人類は、今地球が危機に直面していることを認識している。それでもどの国の為政者もその誤りを正そうとはせず、自然や文化の破壊は相変わらず続いているのが現状である。
今も昔もその繰り返しである。
確かに奈良も、40年前初めて訪れたときと比較して「近代化」されている。
正岡子規や会津八一など、様々な文人墨客の奈良との関わりを少し調べたが、民衆の心の奥底に潜む心を代弁してくれる文化の担い手が必要であることを強く感じた。
大衆は得てして時の流れで、自分たちの守るべきものを見失いがちであるが、よりよい方向へ導く羅針盤的な人たちが必要である。
奈良はこれまでの歴史の中で、そういう人たちに守られてきたような気がする。
そういう人たちがいる限り、日本の心のふるさととして、奈良は奈良でありつつけると思う。
そういえば最近、奈良を語る人や写真にする人が少なくなっているのが少し寂しい。
奈良については、毎年数回訪問し、かなり理解しているつもりでいたがほとんど知っていなかったことを思い知らされた。
それとともに、人は時の為政者によって生活も支配され、良くも悪くもなることをこれまで以上に強く感じた。
さらに人間そのものは年月を経ても本質的に同じだという思いを強くした。同時に民衆にとっても、どの立場をとるかによってどんな長い歴史を重ねてきた文化財も、そして自然すらも単なるくずとなることを知った。
特に衝撃的だったのは、近代においての廃仏毀釈で、日本文化にとって大きな危機だったことを改めて認識した。
しかし、本当に価値あるものはそれを理解する人が現れれば救われている。
興福寺のほとんどすべてのものが売るに出されていたが、五重塔も残り、寺宝も回収して今に残り、そのほとんどが現在では国宝になっているという事実を知り、残されて本当によかったと思う。
これは自然についても同じことで、人類は、今地球が危機に直面していることを認識している。それでもどの国の為政者もその誤りを正そうとはせず、自然や文化の破壊は相変わらず続いているのが現状である。
今も昔もその繰り返しである。
確かに奈良も、40年前初めて訪れたときと比較して「近代化」されている。
正岡子規や会津八一など、様々な文人墨客の奈良との関わりを少し調べたが、民衆の心の奥底に潜む心を代弁してくれる文化の担い手が必要であることを強く感じた。
大衆は得てして時の流れで、自分たちの守るべきものを見失いがちであるが、よりよい方向へ導く羅針盤的な人たちが必要である。
奈良はこれまでの歴史の中で、そういう人たちに守られてきたような気がする。
そういう人たちがいる限り、日本の心のふるさととして、奈良は奈良でありつつけると思う。
そういえば最近、奈良を語る人や写真にする人が少なくなっているのが少し寂しい。
会津八一と奈良(その1) ― 2008年09月08日 23時26分57秒
会津八一と奈良(その2) ― 2008年09月08日 23時45分37秒
会津八一と奈良(その3) ― 2008年09月09日 23時57分35秒
不安定な天候の時期なので、心配していたが、春日大社神苑についた頃に大雨となった。
D70を濡らすに忍びないので、ペンタックスを取り出した。
これは3mまで潜れる防水カメラである。
いくら濡れてもいい。しかし写りはD70にはほど遠い。
とにかくレスポンスが悪いので、暗いところではぶれる。
ファインダーがなく、液晶画面でしか確認できず、手を前に出さなくてはいけないのがぶれる原因である。
ファインダーがあれば、顔にくっつけることができるのでぶれないのである。
さて、八一の碑はひっそりとあった。
かすがのに おしてるつきの ほがらかに
あきのゆうべと なりにけるかも
おしてるつき、とは、照り輝く月のことであるらしい。
碑の近くの、ススキの根本には南蛮ギセルがたくさん咲いていた。
暑かった夏ももう終わりに近い。
D70を濡らすに忍びないので、ペンタックスを取り出した。
これは3mまで潜れる防水カメラである。
いくら濡れてもいい。しかし写りはD70にはほど遠い。
とにかくレスポンスが悪いので、暗いところではぶれる。
ファインダーがなく、液晶画面でしか確認できず、手を前に出さなくてはいけないのがぶれる原因である。
ファインダーがあれば、顔にくっつけることができるのでぶれないのである。
さて、八一の碑はひっそりとあった。
かすがのに おしてるつきの ほがらかに
あきのゆうべと なりにけるかも
おしてるつき、とは、照り輝く月のことであるらしい。
碑の近くの、ススキの根本には南蛮ギセルがたくさん咲いていた。
暑かった夏ももう終わりに近い。
会津八一と奈良(その3)南蛮ギセル ― 2008年09月10日 00時20分40秒
会津八一と奈良(その4) ― 2008年09月15日 18時09分44秒
新薬師寺の十二神将はいつ見てもいい。
写真に撮りたいのだが、撮影禁止なため見るだけである。
ところが、近鉄奈良駅四階に、この十二神将のかなり精巧なレプリカがある。それを写真に撮った。
私の干支、招杜羅(ショウトラ)大将である。
少しうつむいて、悩んでいる感じ。
これからの戦の作戦を練っているのか。
この新薬師寺の、「新」は霊験「あらたかな」お薬師様という意味らしい。
古いのに新と思っていたが、謎が解けた。
会津八一の碑は、萩の後ろにあった。
昔ここに来た折りは、湯豆腐の宣伝の幟が立っていたので気がつかなかったのである。また関心も薄かったこともある。
碑には、
ちかつきて あふぎみれども みほとけの
みそなはすとも あらぬさひしさ
このとき八一が見て歌に詠んだ仏様「香薬師」は、盗まれて行方不明であるという。
持ってる人がいたら出してほしいね。
もしかして外国に行っているかもしれない。
写真に撮りたいのだが、撮影禁止なため見るだけである。
ところが、近鉄奈良駅四階に、この十二神将のかなり精巧なレプリカがある。それを写真に撮った。
私の干支、招杜羅(ショウトラ)大将である。
少しうつむいて、悩んでいる感じ。
これからの戦の作戦を練っているのか。
この新薬師寺の、「新」は霊験「あらたかな」お薬師様という意味らしい。
古いのに新と思っていたが、謎が解けた。
会津八一の碑は、萩の後ろにあった。
昔ここに来た折りは、湯豆腐の宣伝の幟が立っていたので気がつかなかったのである。また関心も薄かったこともある。
碑には、
ちかつきて あふぎみれども みほとけの
みそなはすとも あらぬさひしさ
このとき八一が見て歌に詠んだ仏様「香薬師」は、盗まれて行方不明であるという。
持ってる人がいたら出してほしいね。
もしかして外国に行っているかもしれない。
会津八一と奈良(その4)十二神将 ― 2008年09月15日 18時37分56秒
会津八一と奈良(その5) ― 2008年09月28日 20時36分29秒
東大寺の南大門をくぐり、100mほどいったところに碑はある。
ここ東大寺には、いろんな国から来ているのが、会話がさっぱり分からない人がいることでわかる。ここ東大寺は何度来てもいい。
よくぞこんな大きな木造建造物を建てたと感心する。
木造建築に関しては、現在よりも当時の大工さんの方がレベルが高かったと思う。
タージマハルも単に奥さんのお墓である。
現在の世界遺産を振り返ってみると、たった一人の趣味や思いつきで作られたものもかなりある。
東大寺の場合は、728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺がその始まりといわれる。華厳宗大本山で、741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じ、さらに743年になり聖武天皇が大仏建造を命745年に造営が開始された際、東大寺となったという。
大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍すべてが完成したのは789年になる。実に44年かかったわけである。
その後1180年に平重衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は1709年に再建されたといわれる。
要するに、東大寺も聖武天皇の号令により、建立されたもので、食うものもない民衆にとっては、ありがた迷惑以外なかったのではなかろうか。ただし、タージマハルもそうだが、あの建物を建てるために世界中から技術者がやってきて建築技術を伝えたという。
東大寺も全国各地からやってきた大工さんたちが、技術を伝えあったであろう。そういう面ではおおきな効果があったと思う。
会津八一の碑は、そんな建物の前にある。
おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
おほきほとけは あまたらしたり
大仏は、動かないけれど世界を見てるのだろう。
開いた手を拳にして、悪いことをする人間をしかってやってほしいね。
ここ東大寺には、いろんな国から来ているのが、会話がさっぱり分からない人がいることでわかる。ここ東大寺は何度来てもいい。
よくぞこんな大きな木造建造物を建てたと感心する。
木造建築に関しては、現在よりも当時の大工さんの方がレベルが高かったと思う。
タージマハルも単に奥さんのお墓である。
現在の世界遺産を振り返ってみると、たった一人の趣味や思いつきで作られたものもかなりある。
東大寺の場合は、728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺がその始まりといわれる。華厳宗大本山で、741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じ、さらに743年になり聖武天皇が大仏建造を命745年に造営が開始された際、東大寺となったという。
大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍すべてが完成したのは789年になる。実に44年かかったわけである。
その後1180年に平重衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は1709年に再建されたといわれる。
要するに、東大寺も聖武天皇の号令により、建立されたもので、食うものもない民衆にとっては、ありがた迷惑以外なかったのではなかろうか。ただし、タージマハルもそうだが、あの建物を建てるために世界中から技術者がやってきて建築技術を伝えたという。
東大寺も全国各地からやってきた大工さんたちが、技術を伝えあったであろう。そういう面ではおおきな効果があったと思う。
会津八一の碑は、そんな建物の前にある。
おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
おほきほとけは あまたらしたり
大仏は、動かないけれど世界を見てるのだろう。
開いた手を拳にして、悪いことをする人間をしかってやってほしいね。
最近のコメント