三光神社 ― 2016年05月30日 12時43分27秒
大阪検定の勉強をしていたときよく試験の例題に出てきたのがこの三光神社です。
幸村の抜け穴が見たかったので、一度参詣したいと思っていました。
ウィキペディアによると、
「反正天皇の時代の創建と伝えられ創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。
社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。
かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている」
かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている」
ということです。
和歌山の九度山と同じく、ここにも赤い六文銭や様々な幸村グッズが境内一杯にありました。
大河ドラマに便乗した商売むき出しのところが、参詣した人の心をガヤガヤさせる感じです。私だけの感覚かも知れませんが。
大河ドラマに便乗した商売むき出しのところが、参詣した人の心をガヤガヤさせる感じです。私だけの感覚かも知れませんが。
本当は幟など立てて欲しくはないのですけどね。
神社周辺の小高い丘が公園になっていた。真田山公園としていました。
抜け穴入り口。閉まっていました。
格子越しに見た抜け穴。かなり低い。
400年生きたという武内宿禰が神様に。
大砲らしきものがあり、楽しみに近くに行くと水道管の貧しい造りでした。
ここにこれがある理由がわからずじまいでした。
ここを詠った歌の碑。
蕪村の歌もありました。
空襲で欠けた鳥居の残骸。
こんな感じの石積みいいですね。
天保11年の石碑が石段に。
最近のコメント