春らしい一日。久しぶりの奈良。 ― 2022年04月20日 21時38分55秒
今日は春らしい少し汗ばむようないい天気だった。
朝から久しぶりに奈良の朝護孫子寺に行った。
友人が今年の干支で五黄の寅ということで参拝した。
人が多かったが幟が多くてこのお寺の商売熱心さには少しあきれた。
今までなかったバンジージャンプまであった。
前に来たときはこれほどではなかったが、これも時代か。
でっかい張り子の寅は以前と変わっていない。
寅マークのポストがあった。
バンジージャンプ。
下のダム湖に身を躍らせる。
今の僕にはとてもできそうにない。
虎の絵の前のトラ猫。
もっと面白い写真ができないかと身構えたとき、ニャンコはこの場を離れてしまった。
朝護孫子寺近くに法隆寺があるので、何年ぶりかで立ち寄った。
新緑が綺麗だった。
法隆寺には幟など一本もなかった。
甍の上でさえずっていたスズメ君。
朝近所ののらくろ君。
宅配便を落としてくれる張本人である。
金魚を狙っている。
人慣れしているのでなかなか逃げない。
今日はオオタニサンはヒットも打たなかった。
試合は勝ったけどね。ま、こんな日もある。
コロナ感染は、和歌山はきょうは311人だった。
東京は6776人、大阪は3935人、滋賀が344人、京都が1112人、愛知22638人、北海道3058人、沖縄1581人だった。
全国では47899人だった。一向に減らないどころか今日は増えている。
今日は定期検診。暑いくらいの一日。 ― 2022年03月25日 21時46分34秒
今朝は普通の春の朝だった。
医者の定期検診に行かなくてはいけないので早くに家を出た。
いつも少し遅くなると通勤時間に会い余計遅くなるからである。
今日は少し早くでたので割にスムーズだった。
検査の結果は問題なしで検査のスパンも長くていいとなった。
昨日華岡青洲の道の駅ができたということを聞きつけて見に行ったが、案の定しょぼい施設であった。
せっかく広大な土地がありながら生かせていないところがある。
また来場者へのホスピタリティが全然考えられていないところが見えてしまっている。
休憩所には椅子がなく、造花が飾られていたりする。
バイクや自転車のきちんとした置き場所もない。
最近はSNSの発達でイイとなれば拡散され特段宣伝をしなくても人がやってくるがこの青洲の里は魅力がない。
せっかく華岡青洲の旧邸がよくできているのに残念である。
まだ言いたいことはたくさんあるのだがキリがないのでやめにする。
ロシアのウクライナ攻撃は激しさを増している。
そのPさんと仲良かった日本のAさん。手のひらを返したように言っているらしいが厚顔無恥。しかし今総理をしていたらどうするのだろう。
コロナ感染は、和歌山はきょうは148人だった。
東京は7289人、大阪は3783人、滋賀が636人、京都が1000人、愛知2719人、北海道2138人、沖縄825人だった。
全国では47470人だった。
今日は素晴らしい寒さだった。 ― 2022年01月18日 20時37分01秒
今日は素晴らしい寒さだった。
朝はそれほど寒くはなかったのだがだんだん寒さがつのってきた。
おまけに風が吹いて余計寒く感じた。
夕方には雪まで降ってきた。
そういえば今日は初観音で、観音様と縁を結ぶ縁日である。
観音菩薩は、人々の願いを現世で叶えてくれる仏様である。
33種類の姿に変身できるという。
観音様にまつわる数字に33が多いのはこのためらしい。
一応西国33所は全部回ったが、もう記憶が薄らいでいる。
写真は1981年1月18日本宮大瀬観音の観音開きのスナップである。
前に一度カキコした感じだが、また気分を新たにして入れてみた。
熱心にお経を唱えている。
これからもちまきがはじまる。和歌山の人は餅拾いが好きである。
観音さんに何を頼むのだろう。
コロナ感染は、和歌山はきょうは196人だった。
東京は5185人、大阪5396人、滋賀が403人、京都が1024人、愛知が2145人、北海道698人、沖縄1443人だった。
全国では32197人だった。少し減ってかなという気がしたがまた全国では今度は3万人を超してしまった。
今朝は2022年発氷が張った。氷点下2度であった。 ― 2022年01月02日 21時45分02秒
今朝はメダカのある水盤と水瓶に氷が張っていた。
水をやらねばいけない花があるのだが、ホースが凍ったのか水が出なかった。温度計を見ると氷点下2度だった。
氷が張るはずである。この冬そして今年一番冷えたかな。
氷点下というのはなかなかないものね。
新聞のエッセイにあった岩出の境谷を訪ねた。
実は昨年暮れ、病院に行った帰りに一度来たのだが道が狭く、駐車する場所がなかったので、集落の入り口でユーターンしたのである。
今日は集落までの道の手前の広いところに車を止め、歩いた。
集落は本当に隠れ里という雰囲気がぴったりであった。
とにかく空のスズメバチの巣が多かった。
無人のおうちにあったのでそのままになっているのかわからない。
蔵の屋根に巣をしていた。彫刻のある蔵だった。
カラスウリが至る所にあった。なかにはバナナのようになっているのもあった。
集落の真ん中を小さいが川が流れていた。
牛か馬が今にも顔を出しそうな立派なおうちがあった。
どの家も鬼門様に南天を植えていたが、誰かの家の南天と違って実が良くなっていた。この違いはどこから来るのかな。
野いちごがあり食べた。美味しかった。
集落の所々に連絡板があった。
もう冬なのに空蝉があった。
子供が多かった頃はここで泳いだのではなかろうか。
神社があった、日吉神社という。
薬師堂という。屋根が崩れかけている。
記事では、エッセイストが集落の入り口で平家の落人が隠れ住んだと口伝で聞いている、と書いていたが、ここは平家の落人がいたというのは私はないと思う。
平家の落人がこんな所にいるわけはない。
そのエッセイストも7年前に来たときは30戸50人ほどが暮らしていたが今は20戸ほどに減っているという。
確かに無人の家が多かった。
家の角に南天の木があるがみな見事な実をつけていた。
日吉神社と地蔵堂にも立ち寄ったがそれは日を改めて書くことにする。
コロナは和歌山はきょうはゼロだった。とにかく今年は2日ゼロの日が続いている。
このままゼロでいてほしいね。
東京は84人、大阪57人、北海道16人、沖縄51人だった。
全国では554人だった。
じわじわ増えている。ゼロの府県が少なくなってきた。心配だね。
今日は国宝巡り ― 2021年03月10日 20時47分32秒
朝は8度あった。
だいぶ暖かくなってきた。風が強かったが暖かさのおかげでそれほど寒くはなかった。
ミカンにイソヒヨ君が来た。
風が強いのでヒヨドリさんの服が乱れている。
今日はスズメ君が顔を出してくれたが、逃げられては困るのでリモコンコードをつけて撮った。狙っていたところに来ず、顔だけになった。
暖かくなってきたので、寺社巡りを再開した。和歌山にもいい寺院がたくさんあるのでまず国宝や重要文化財を見て回ることにした。
善福院は健保2年(1214)栄西禅師によって創設されたといわれる。
広福寺五ヶ院の一つという。
広福禅寺は古くは七堂伽藍を備えていたが、大旦那の加茂氏の没落にともない荒廃したという。
その後、高野山に頼り真言宗に転宗し伽藍を修復し、更に紀州藩となってからは天台宗に転宗した。
現在は善福院だけとなっていて釈迦堂の本尊釈迦如来坐像の胎内の修理銘に嘉暦2年(1327)とあることからこの頃の再建とされている。
桁行三間梁間三間、一重裳階附き寄棟造り、本瓦葺の二重仏殿で、木割(材木の長さに対する太さ)が太くがっしりした感を与えている。また、床は瓦を敷いていた。
本瓦葺寄棟造、平行垂木など禅宗様式定着前の様式がよくあらわれている。
鎌倉時代後期の禅宗様式の典型的な建築として国宝に指定されており、鎌倉円覚寺舎利殿、山口功山寺仏殿などと共に有名だという。
住所は、海南市下津町梅田271番地である。
禅寺だったので、軒丸瓦は「禅福寺」となっている。
この善福院には、裳階がある。
裳階(もこし)は、仏堂、塔、天守等で、軒下壁面に付いた庇状構造物で、元来は風雨から構造物を保護するために付けられたもの。
構造は本屋より簡素であり、建物を実際より多層に見せることで外観の優美さを際立たせる効果があるため、特に寺院建築で好んで利用されたという。
代表的な建築物としては、法隆寺(金堂、五重塔)、 薬師寺(金堂、大講堂、東塔、西塔) 東大寺(大仏殿)などがある。
床は瓦敷である。
三郷八幡神社は、浜中村、大崎村、塩津村と、加茂村の一部の総氏神として、近衛天皇の久安年間(1145~1151)浜中の莊、上村大森の地から元山の西尾へ移され、更に、後土御門天皇の文明年間(1469~1487)現在地に遷座したという。
春祭は、大投餅、秋の例大祭は、子供神輿渡御、浦安舞奉納、神火祭を行い、大いに賑わうそうである。
国指定重要文化財の本殿は、様式的には、室町末期の特徴をよく残し、蟇股や木鼻の浮立彫刻には、桃山前期様式の前駆がみられる。
現存の棟札によれば、安永年間及び文政年間の2回比較的大規模な修理を受けていることが分る。
最古の棟札には「永祿二季戌未六月吉日及び釿始六月十一日假殿御立六月七日外遷宮六月九日柱立六月二十七日」の記がある。
其の他、宝永・慶応の棟札が国指定重要文化財に指定されている。
八幡宮の額は、裏に「奉寄附八幡宮領掛、紀州海士郡三ケ村神前也、元祿十二己卯年九月朔日、從五位下水野志摩守 源重孟 敬白」と刻されている。
縁起書2巻は、元祿9年紀州藩主の代参として、從五位下水野志摩守が長保寺参詣の折、乗馬がいなないて急に進まなくなったので、不思議に思い、下馬して馬が向いた方角の山腹を見ると八幡神社があったので、神威のあらたかなのを感じ、寄付されたものという。
住所は、海南市下津町黒田269番地である。
この杖を見て少しびびったが、それほどでもなかった。
本殿。小さいが重厚。
彩色がいい。
ここは桜の名所であるという。
風が強かったので鳥居も揺れている。
所々に偉人の言葉を書いた紙があった。これはスティーブ ジョブズのもの。
夏に酒戻りのような陽気だった。 ― 2020年11月18日 20時25分10秒
今日は夏が戻ったみたいな気温であった。
いろいろ用事がありどこへも行けなかった。明日もいい天気そうなので明日またバードウォッチングでもと思っている。
11月6日に花園に行く途中で立ち寄った。
そのとき大銀杏の葉はまだ緑だったが今頃は黄色に変わっているかもしれない。
銀杏の実がたくさん落ちていて少し拾った。
それにしても立派な銀杏だった。
長谷丹生神社は丹生都比賣命・大黒主の命の二座を、主祭神としている。
弘法大師高野山入山後も、六ヶ七郷を天の大社の社領とし、年中祭礼の料也とある。
七郷の中の長谷村(現伊都郡かつらぎ町新城地区、海草郡紀美野町長谷宮地区)の鎮守社として祀られてきた社であり、現在の社殿は明治30年に改築されたという。
10月10日神幸祭 御旅所まで青年団子供会氏子中で「山車」を先頭に神輿の渡御あるというが見たことはない。
ネンガジョウの季節であるが、⒉,3年前から来年からは出さないというメッセージを書いたのもちらほら来るようになったが、先日話をしているとそういう人に限ってすぐ亡くなっていると言われた。
やっぱり今年も出そう、と例年になく早くにデザインも決め、印刷を始めた。
例年12月末でないと完成しないのだが今年は早くに出せるだろうか。
すっきりしない天気だった。 ― 2020年11月13日 19時33分42秒
朝から定期検診に行ってきた。
途中雨がぱらついたがすぐやんだ。
病院はいつもながら満員であった。無論マスクはしている。
先日参拝した名手八幡神社である。ここは何度がきたことがあるのだが熊野古道のコンテンツとして追加したいのでもう一度見たいと思い、見に行った。
名手八幡神社は、丹生津比売大神が降臨し聖地であり古来から産土神として御奉斎されているという。
神功皇后が三韓征伐(新羅、高麗、百済の三国)の後、筑紫(現、福岡県)より御顗旋の途中、ここを訪れ、筑紫の蚊田(現、福岡県糟屋郡宇見町)で授けられた後の第十五代応神天皇の生誕を報告したとある。
その縁で誉牟田別命(第十五代応神天皇)を主祭神としてしている。
大鳥居の扁額に「八幡神社」と有るが、この額は慶安元年(1648年)子年紀州徳川家初代藩候徳川頼宣侯より奉納されたものであるという。
当神社は皇族方が熊野詣等御行幸啓の折、神功皇后がここに宿泊した古事に依り、御旅所として定められ、第七十七代後白河法皇、第八十二代後鳥羽上皇、第九十六代後醍醐天皇の行幸が有ったという。
熊野古道の旅の途中で宿泊したのである。
南北朝時代後醍醐天皇(1316~1339)が吉野(奈良県)に朝廷を開かれた折も行幸した。
今は絶へて久しいが、祭礼6月晦日には能の奉納が有り、役者は和州天の川(現、奈良県吉野郡天川)より来たり、8月15日には流鏑馬が有り馬数は大抵百騎であったと伝へられている。
流鏑馬にたくさんの馬がきていたと言うが見てみたかった。
今は中学校になっているが、当時は100頭で流鏑馬ができるほどの広さがあったのだ。またお能がかかったりしたと言うが文化度は昔の方が高かった気がする。
調べれば調べるほど和歌山は面白いところである。
徳川頼宣が書いたという扁額。
残念なことに檜皮葺きの屋根を守るためだと思うが、神殿の上に屋根があることで点数がだいぶ下がってしまう。
安高稲荷大明神とある。
歴史ある証に木々が大きい。
ここの灯籠は元の石の上を木の火屋を作っている。
本来の参道だろうがここを歩いて参拝するのは少し危険な気がする。
龍王神社もある。
いい天気だった。「鬼滅の刃」のお寺見学 ― 2020年11月08日 20時18分32秒
今日は昨日と打って変わっていい天気だった。
朝のうちは少し曇っていたが晴れてきた。
今日は「鬼滅の刃」の舞台になったお寺が我が町にあると言うことでミーハーではないが行ってきた。
ストーリーや映画のことは全くシラナイのだが新聞に載っていたので、出かけた。
家から10分ほどのところで、すぐにわかった。
御朱印をもらうときに、
「ブームですね。大変でしょう」と聞くと、
「そうですね。忙しくて本来のおつとめができません」
「それは大変ですね」
「ま、おいでいただくのはありがたいのですが」
「私も在所が違うのでここへ来るのは初めてです。何がどうなるかわからないですね」
ほんとにわからない世の中になってきた。
実は戸板の前でコスプレをして写真を撮り合っているのをカメラにおさめたかったのだが、撮れなかった。
甘露寺にいったついでに平池公園に行ってきた。
お寺は平池の駐車場からすぐである。お寺にも10台くらいおける駐車場がある。
平池は寒さが厳しくなるにつれて鳥の数も種類も増えてきていた。
黒鳥はまだいる。
たくさんの人が見学?にきていた。
彼女たちはきっとお寺の戸板の前で写真を撮ったはずである。
絵を描いている人がいたが上手だった。若い人が熱心に見ていた。
今日も朝からいい天気 ― 2020年10月13日 09時49分16秒
今朝もいい天気である。
少し寝不足が続いているので体がなんとなく重い。
昨日はいい天気だった。
大和街道のてくてくページをつくってからもう20年以上経つので新しいバージョンにしたいので歩いた。
特に那賀地区や橋本市地区は都市計画で大きく町並みが変わってしまっているのでその変貌ぶりを確かめたかった。
粉河から歩き始めて名手本陣までを歩いた。
大和街道の町並みそのものは大きく変わりはないが、空き家が更地になってしまっていわゆる古街道のイメージの町並みは消えつつある。
JR和歌山線の線路踏切を渡るところがあるが、地図を見ながらいっていると後ろから女性が声をかけてくれて、
「どこまで行くのですか」
「名手本陣までですが」
「でしたらこの道ではなくもう一つ向こうの踏切で、その踏切を渡ってすぐ右にいくと大和街道です。この道をよく間違う人が多いのです」
ということで間違えずにすんだので助かった。間違う人が多いのでレクチャーしてくれたのである。
杏と蔵。このあたりは蔵のあるおうちが多い。
電柱に防火用ホース政党のポスター。うっかりすると見落とす。
電柱が邪魔をしている。
ここは変わっていないが以前歩いたときはこの格子戸はまっさらだった。
高級な柿なのかビニールをかぶせている。
草がうまい事同じ長さで切れているなと思ったら、電車走行でちょん切れた。
名手川で魚を狙うサギ君。
新設の道路なら電柱をなくしてほしかったね。
ここないが変わらないが人の気配はなかった。
郵便局である。
名手本陣も久しぶりに訪れたが、無料になっていてバージョンアップされていた。
女性が一人版をしていた。その女性からお土産にキーホルダーをいただいた。
結構歩いたので10000歩を軽く超えていた。
左側は馬を止めておいたのかな。侍の行き来を想像する。
早速キーホルダーをつけた。軽くていい。
紀南ではめちゃくちゃな雨だったらしい ― 2020年09月25日 20時45分31秒
今日は紀南地方に大雨が降ったそうである。
1時間120mmというとてつもない降り方だったそうで、フェイスブックの書き込みでも新宮の国道が川のようになっていた。
天気図を見ても赤い所が紀南を覆っていた。
本当に異常気象が続く。
先日花園村に行ったが、そのとき神社を回った。
最初にいった下花園神社は、有田川の上流に沿う梁瀬橋の南峯山腹にある。
この社は、花園荘梁瀬村と付近の有中、峯手、中越、古向、臼谷、池の窪、敷地の氏神となっているそうである。
境内に八幡宮、稲荷社がある。
毎年正月8日には、若衆男子による豊穣を祈る「花園御田の舞」の行事(国の重要無形民俗文化財指定)があるというがまだ見たことはない。
又、近くに弘法大師開創という遍照寺があり、61年目ごとの閨年10月に法華経の説く女人成仏を劇的に演じる「仏の舞」(県指定無形民俗文化財)があるがこれはずっと以前見た。
小学校や保育園が隣接してあり、運動場からすぐ本殿がある珍しい神社である。
元々の木は枯れてしまったが、枝がたくさん伸びている。楽しみである。
次にいった上花園神社は、平安時代に殖産興業の神として創建されたといわれ、その後、花園荘の氏神として祀られ、とくに南北朝時代の長慶天皇の崇敬が厚かったといいう。ここは高野への道にあるので何度か参詣したことがある。
本殿は一間社春日造で、天保5(1834)年建立ということである。
1月10日に「御田の舞」が行われ、本来は菩薩面、鬼面、鼻高面、等の面、20余面があるが現在は、人口減により鼻高面だけを使うらしいが、まだ見たことはない。
なお面箱に「文保元(1317)年六月十五日、日州住侶再興永禄五年十一月一八日貞宗敬白」とある。
大きな杉に囲まれた社である。
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