我が串本の昔2013年08月03日 22時24分11秒

今日は近くの資料館へ行って串本町誌を見てきました。
それには以前から目をつけていたのですが、串本の古い写真があったのです。

数枚複写させていただきました。

下の写真が私の家の前でした。
こうして漁から帰ると船を岸に付け、網を浜に上げて高い木の棒「なる」に滑車で吊るし、陽に干して乾かします。
これは大変な作業でした。
網を干していないときは、ターザンごっこのいい遊び場でした。

沖から帰る船は大漁だと「フライキ」という大漁旗をあげて帰ってきます。その時はパンがもらえるので楽しみでした。

手前の小さな川がありますが、ここにはいつもうなぎの稚魚シラスウナギが時期になると群がっていました。
私たちはそれをすくい、畑の野ツボに入れました。2、3年すると食べごろのうなぎに成長していました。こういう川がたくさん残っており、田んぼや池などとつながっていればウナギは絶滅危惧種にならなかったと思います。

串本

下の写真には私の家の屋根も写っているはずです。原本だったら確認できると思います。右上の白い道がくびれているところの右に1条延びている道の根元に私の家がありました。
この景色はわずか55年ほど前です。まだ埋め立てもしてなくて前の海岸でよく泳ぎました。もしこの海岸が残っていたら海水浴で賑わっていると思います。

風が吹くとこの砂浜の砂が飛んで、口の中がジャリジャリしました。
それで、「岬の芋くい、串本の砂くい」と岬の子供と喧嘩するときなど、言いあいました。

左上の磯が遊び場で、水中銃でイガミ、タカノハダイ、ガシラなどをよく獲りました。
アワビをはじめとした貝もたくさんありました。

串本

こんな地形ですから南海地震では津波が来ましたが、大島があるおかげで被害は最小限だったそうです。専門家の言うとおりに、10mを超える津波が来るとひとたまりもないのがよくわかります。海抜2、3mですから。
地震の時は私はまだ存在してませんでしたが。

こんな素晴らしい街だったのが、ほとんど埋め立てられて、今や見る影もなくなっています。シラスウナギが昇っていた小川もなくなりました。

串本

県の銀行です。
こんな素敵な建物が串本にもあったのですね。
戦前ですので私は知りませんが、今残っていればいい建築遺産でしょうね。

昨日のブログで景観のことを書きましたが、戦後の高度経済成長は、経済面だけが伸長し、一番大事にしなければいけないものを失った気がして仕方がありません。

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